Jazz Bass Blog

Exploring The World of Jazz and Low Note

真剣の先にあるもの

ジャズを聞く人間の種類は大きく分けて、二種類いる。一人は真剣な顔つきで、演奏者を観察しながら、音の使い方を分析している人だ。もう一種類の人間は、体を小刻みに揺らしながら、音を体で感じる人だ。

まずジャズの聞き方に正解というのはない。バーで酔っ払いながら聞く人もいれば、ちょっとお洒落なレストランで会話をしながら、BGMとして聞く、という聴き方だってある。だから、これが最もだ、といった正しさはそこに存在しないし、するべきではない。しかし、”音楽”には絶対的な本質というものがある。それは音楽を通していかに演奏者が表現できるかである。なぜなら音楽は、一種の芸術として、人が何らのモノを通して利用することが出来る表現方法の一つだからだ。そうであるから、自分が一番表現したい内容が表現できる限りは、簡素な話、楽器はどれだっていいのかもしれない。又同様に、数ある現代楽器が、普及して確立されつつあるのは、西洋の文化や伝統の継承以外に、人間の表現したい内容を上手く投影する事ができるから、とも考えられる。

 

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私はセッションに毎週通い、普段の生活から多くの時間を練習に捧げてきた。極度に集中をして取り組んでいると、それに対して真剣に向き合うようになる。次第に私は、セッションやライブに顔を出しても、ジャズを楽しむ人間ではなく、観察/分析者になっていた。

 

足でノリを取らず、じっくりと真剣な眼差しで演奏者を観察する私は、たとえ演奏を身近で聞いていたとしても、殆ど楽しんでいないのだと錯覚した。演奏していても、全く同じ気持ちだった。即興をしても、何か機械的な音がした。正直何の為に音楽をやっているのだろう、とさえ感じた。気づけば、真剣に向き合えば向き合うほど、自分の表現したい事ができなくなるジレンマにハマっていた。だから一度、音楽との向き合い方を変えようと決心した。他人の表現を観察するのをやめて、体で感じられるように、心から楽しんでみるようにした。頭で考えるのをやめた。そうすると、次第に、自分の一番表現したい内容が出てくるようになってきた。周りの演奏を聞いていても、ジャズはやはり美しい音楽であると、感性を刺激された。そして気づけば、セッションやライブで上記の二種類の人間が垣間見えてきた。だが、私の頭の中には疑問が残る。真剣になることの何が悪いのだろうか、と。

 

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2015年の一月頃、私は地元の映画館でWhiplash(邦題:セッション)という映画を見て、感銘を受けた。プロタゴニストの、偉大なジャズドラマーを目指すアンドリュー・ネイマンは、ニューヨークのシャファー音楽院に通う大学一年生だ。彼はそこでジャズ・アンサンブルを指揮するテレンス・フレッチャーに才能を見出される。しかしフレッチャーは生徒に暴力的と言えるほど厳しく(生徒の顔を引っ叩いたり、椅子を投げつけるシーンもある)アンドリューも次第に彼の影響下に置かれることになる。

私がこの映画で特段感動した点は、努力とそれに伴う犠牲 の表現が美しいところだった。つまり、どれだけフレッチャーから叱られても、理不尽な暴力を受けても、偉大なジャズドラマーになるという、成長を第一目的として捉えているアンドリュー・ネイマンがどこかハードボイルド的で、そしてマスキュラーなエッセンスが詰まった彼とフレッチャーの関係が魅力的だった。しかし、実際のところ、極端な献身的行動が、ジャズの即興に於いて、表現の自由や可能性を捻出することができるかどうかには、疑念が残る。私が思うに、極端な献身性からくる真剣さが、寧ろ表現の自由を妨げると考える。なぜなら、身体がどれだけリラックスされた状態であっても、心が、上達するという一種の目的に固執してしまい、自己表現を優先するよりも、パフォーマンスとしての上手さをより意識してしまうからだ。音楽においてテクニカルな面は、根本的に表現のバリエーションを広げる一つの手段にほかならない。そして究極的には、物事に対する真剣性が人間の内部に潜在するエゴによって拡張され、上達するという手段が目的と化してしまうという危険性がある。アンドリューはフレッチャーの圧力と共に、精神を押されながら偉大なジャズドラマーを目指したけど、それが一人の表現者=音楽家として、成功したと言えるだろうか?

 

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今夜もジャズのライブが始まる。一人のギタリストがヘッドを演奏し始めるや否や、観客席の一番前に座る一人の若いドラマーが、険しい表情で、演奏しているドラマーだけを見つめていた。

 

Steve